Lifestyles and Traditions 隠岐の文化の形成

隠岐の多様な文化は、どのようにして生まれ、伝えられてきたのか。
隠岐の歴史・文化の形成要因と考えられる、黒曜石、遠流の島、北前船について解説します。

黒曜石の産地

黒曜石は隠岐を代表する岩石の一つであり、旧石器時代から石器の材料として利用されていました。

黒曜石製石器

黒曜石は産地ごとに含まれる微量成分などが違うため、化学的な分析で産地を特定できるという特徴があります。このため、黒曜石の産地は国内でも70箇所以上知られていますが、石器に利用しやすい良質な黒曜石の産地は隠岐を含めて6箇所ほどで、中国地方では唯一の産地だったことが判っています。

隠岐の黒曜石は遙か3万年前から中国地方を中心として新潟県や四国地方まで運ばれており、このことは隠岐の黒曜石が良質であったため、古代の生活には欠かせない石であったことが想像されます。

黒曜石の遺跡の分布図

また、隠岐の黒曜石の見つかる遺跡の分布を調べていくと、当時の盛んな人と文化の交流のルートも見えてきます。黒曜石が運ばれた道は、その後の歴史でもたびたび登場する、人と文化の通り道、原点となりました。

遠流の島

隠岐が遠流の地と定められたのは聖武天皇の時代、神亀元年(724年)で、江戸中期になって一般の罪人が流されるようになるまでは天皇や公家、役人などの政治犯が配流となっていました。

隠岐が遠流の地となったのは、都から遠く離れているというだけでなく、島での生活に問題が少ないということもありました。流された貴人が飢えたり、生活に危険を覚えるような場所ではだめだったのです。

その点、隠岐は海に囲まれ作物豊かで既に黒曜石以来の歴史のある土地であったことが選ばれた理由になっているのでしょう。

隠岐に流された著名な人物には、鎌倉時代に権力闘争に破れた後鳥羽天皇と後醍醐天皇、そして平安時代の歌人小野篁などがいます。

後鳥羽天皇
後醍醐天皇

北前船の寄港地

隠岐は江戸時代の半ばから明治30年頃まで、北前船の寄港地として栄えました。
北前船とは、大阪を出て西回りで瀬戸内から日本海を航行し、寄港する港々で商品を売り買いしながら北海道まで往復していた船の呼び名です。

北前船の模型

北前船が隠岐へ頻繁に寄港するようになったのは、18世紀の中頃に大阪で繊維技術が発達し、1785年に丈夫な帆が開発されてからです。それまでは、帆が弱く、強い風に耐えられなかったため、日本列島の海岸沿いを小刻みに帆走することしかできませんでした。
このため、年間に大阪と北海道を1往復しか出来ませんでしたが、丈夫な帆を使用するようになってからは、下関-隠岐-佐渡という沖乗りルートとなり、風待ちや物資の補給基地として隠岐島内の各港が利用され、年間2往復が可能となりました。多い年では、年間4500隻の船が隠岐の各港に停泊し賑わいました。

当時の北前船のルート

また、北前船は売り買いをする商品だけではなく、全国各地の民謡も隠岐へ運んできました。「隠岐は民謡の宝庫」とも言われていますが、中でも新潟県柏崎の盆歌が元歌となっている「隠岐しげさ節」や、荷物の積み下ろしの時に歌われたといわれる「どっさり節」は隠岐民謡の代表格として現在も歌い継がれています。

北前船の寄港地として栄えた当時の隠岐は、情報も物も集まる先進地のひとつとなっていました。明治時代に隠岐を訪れた文人(ラフカディオ・ハーン)は西郷の食堂で洋食が出せると言われて驚いたエピソードを紀行文に綴っています。